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智者猫のコラム
「人は城 人は石垣 人は堀. なさけは味方 あだは敵なり」
これは信玄の歌と言われています。
ビジネスでは、人はコストではなく資源・財産であると言います。
そしてわたしたちもまた、人との出会いによって、財産を増やしていると言えます。
もちろん、その中にはどうしても気の合わない人たちも混じっているでしようが、そんなときは山崎陽子さん(エッセイ『しあわせは、いつも いま』の作者)のように、“ニッコリ笑って後ずさり・・・”。
ところで人見知りをして、とても良い友達になれないけれど、それでもmemoryになれるかなぁ?
これは信玄の歌と言われています。
ビジネスでは、人はコストではなく資源・財産であると言います。
そしてわたしたちもまた、人との出会いによって、財産を増やしていると言えます。
もちろん、その中にはどうしても気の合わない人たちも混じっているでしようが、そんなときは山崎陽子さん(エッセイ『しあわせは、いつも いま』の作者)のように、“ニッコリ笑って後ずさり・・・”。
ところで人見知りをして、とても良い友達になれないけれど、それでもmemoryになれるかなぁ?
智者猫のコラム
「なんだったかなぁ?」と言うことはよくある。
“探しものは、なかなか見つからないもの・・・”
道の途中で見た花の名前を、思い出そうとして想い出せなかった。
帰りに見たとき、思わずつぶやいたー「アガパンサス!」
もともと物覚えは良くないほうである。
やがては愛するものの名前も忘れるのだろうか?
「忘却とは忘れ去ることなり!」 (菊田一夫『君の名は』)
アガパンサスの花ことばは、“恋の訪れ、愛の便り”である。
“探しものは、なかなか見つからないもの・・・”
道の途中で見た花の名前を、思い出そうとして想い出せなかった。
帰りに見たとき、思わずつぶやいたー「アガパンサス!」
もともと物覚えは良くないほうである。
やがては愛するものの名前も忘れるのだろうか?
「忘却とは忘れ去ることなり!」 (菊田一夫『君の名は』)
アガパンサスの花ことばは、“恋の訪れ、愛の便り”である。
智者猫のコラム
降る雪や 明治は遠く なりにけり (中村草田男)
とは言うものの、今日は“昭和の日”である。
『ALWAYS三丁目の夕日』を観たとき、“ニッサン石鹸”という幟を目にし、なつかしい気がした。
昭和という町が、平成の路地裏で、かつての長屋を町屋風にリフォームして、何軒かの料理の店ができている。
遺しておきたいものはいっぱいある。
そう言えば、明治と昭和に挟まれた大正は息づいているだろうか?
デモクラシーや震災という時代のなかで、やはり大正ロマンというものがあったのだ。
都市は変わり続けるけれど、明治・大正・昭和を単なる博物館じゃなく、暮らしに活かしてほしいものである。
とは言うものの、今日は“昭和の日”である。
『ALWAYS三丁目の夕日』を観たとき、“ニッサン石鹸”という幟を目にし、なつかしい気がした。
昭和という町が、平成の路地裏で、かつての長屋を町屋風にリフォームして、何軒かの料理の店ができている。
遺しておきたいものはいっぱいある。
そう言えば、明治と昭和に挟まれた大正は息づいているだろうか?
デモクラシーや震災という時代のなかで、やはり大正ロマンというものがあったのだ。
都市は変わり続けるけれど、明治・大正・昭和を単なる博物館じゃなく、暮らしに活かしてほしいものである。
智者猫のコラム
“老学(おいがく)”と言うことばがあるかどうか知らないけれど、定年後の20年は、自分と家族のために生きたいものである。
この“自分と”と言うのは、若いころから抱いていた夢に向かい合いたいと言うことである。
そして“家族のために”と言うのは、この“老学”を、“老楽(おいらく)”にしたいということである。
さらに言えば、“家族のために”の中には、お互いが抱えこむ“老親(ろうしん)”を、看護(みまも)るという姿勢がある。
親は子どもに旅をさせるものであり、遠く離れた子どもは、そこで親になる。
そして老親は、孫の世代が生きつづけることを願っている。
この“自分と”と言うのは、若いころから抱いていた夢に向かい合いたいと言うことである。
そして“家族のために”と言うのは、この“老学”を、“老楽(おいらく)”にしたいということである。
さらに言えば、“家族のために”の中には、お互いが抱えこむ“老親(ろうしん)”を、看護(みまも)るという姿勢がある。
親は子どもに旅をさせるものであり、遠く離れた子どもは、そこで親になる。
そして老親は、孫の世代が生きつづけることを願っている。
智者猫のコラム
一組の夫婦いる。
夫にも妻にも親がいる。
あの若かった夫婦も、60歳に近くなると、もはや親も老いの域を達観しているだろう。
このようなことになれば、お互いの親を第一に考えたいものである。
つまり、お互いが“老い”を学ばねばならないからだ。
老夫婦が、お互いに健在なら、夫婦であることを分かち合えば良い。
しかし、もし寡婦(あるいは鰥夫)のひとり暮しなら、親の言葉をひとりにしてはいけない。
親の言葉は一つ一つ、大切に拾っていきたいものである。
夫にも妻にも親がいる。
あの若かった夫婦も、60歳に近くなると、もはや親も老いの域を達観しているだろう。
このようなことになれば、お互いの親を第一に考えたいものである。
つまり、お互いが“老い”を学ばねばならないからだ。
老夫婦が、お互いに健在なら、夫婦であることを分かち合えば良い。
しかし、もし寡婦(あるいは鰥夫)のひとり暮しなら、親の言葉をひとりにしてはいけない。
親の言葉は一つ一つ、大切に拾っていきたいものである。


